鮨蒲誕生秘話

新しい商品の提案は、河内屋の責任であり使命だと思う。

創業者の先見の明で、魚津に開業。

河内屋は、昭和22年6月に創業しました。
きっかけは、創業者である父親が魚津でかまぼこ屋の前に長蛇の列ができているのを見て、需要の高さを感じたことが一つ。
二つ目は戦後という時代で、かまぼこは作れば売れるという状況にあったこと。
そして、三つ目は、当時栄えていたところは、どこも海の近くの鉄道の駅前にあったことにあります。ここは魚津駅の目の前ですし、海も近く、市場も近い。そういう先見の明があったところが、発展の大きな基盤となったといえるでしょう。

しかし、食糧がない昭和20年代から時は移り、私が河内屋に入った頃には、いかに売れる商品を作るかが重要になっていました。私は東京の会社で働いていたこともあり、大手有名百貨店とのルートがあったので、東京に積極的に売り込みに行きました。

昭和38年頃の魚津駅前(魚津市提供)
昭和38年頃の魚津駅前(魚津市提供)

鮨屋で閃き、「鮨蒲」を開発。

当時は、新しい付加価値のある商品はできないか?と、朝から晩まで考えていました。
売れる商品を作るヒントは何かないかと思案していたとき、ある日、家族を連れてお寿司屋さんに行ったんです。
そこで、「どうして寿司屋は人気があるのだろう?」、「なぜ高くても注文するのだろう?」「なにが違うんだ?」と考え、寿司ネタに付加価値があるからだということに気づきました。

そこで、今までにある富山のかまぼこ独特の固定概念は取り払い、かまぼこにありとあらゆるいろんなネタを1000種類ぐらい貼りつけて試作をしました。
できあがったサンプルをもって東京に行ったところ、反応がものすごくいい。
そうして完成したのが、河内屋の「鮨蒲」です。

最初の商品は、紅鮭。それから、甘エビ。日本海の有名な素材や、富山らしい食材を意識してつくっていきました。おかげさまで「鮨蒲」は大好評を得て、雑誌などで紹介されたときなどは、ものすごい数の問い合わせが寄せられました。

鮨蒲と巻きかまぼこ
鮨蒲と巻きかまぼこ

新しい商品をつくることが使命。

現在は、「鮨蒲」の種類も10種程度に落ち着いています。
確かに大ヒットはしたのですが、私としてはこれはもう終わったものです。そこにいつまでも胡坐をかいていてはいけない。

ヒット商品は、そのときそのときの状況から生まれるもの。あの時代だから当たったのであり、今では似たような商品も出て希少価値はありません。
それより、一番大事なことは新しいものを開発していく姿勢であり、それこそが河内屋のエネルギーなのです。

製造においても、大量生産はやめて、手づくりが基本。職人も「ここは、かまぼこの研究所だと思え」という私の考えを深く理解し、研究・開発に積極的に取り組んでくれています。

専門店として常に新しい商品を提案していくのが河内屋の責任であり、宿命であり、使命だと私は思っています。

棒S(ボウズ)、カリー蒲鉾、金太郎かまぼこ
語り手 故 河内一雄(元代表取締役会長)
1976年(昭和51年)1月、先代没後事業を法人化し代表取締役社長に就任する。
その後本社ビル建設、鮨蒲の商標特許取得など、今日の河内屋の礎を築いた。
2012年(平成24年)2月7日 死去。享年70歳。

河内一雄(元代表取締役会長)