2025.10.28
かまぼこの由来とは?名前の意味と歴史をわかりやすく解説
「かまぼこ(蒲鉾)」は日本の伝統的な練り物で、魚のすり身に様々な方法で火を通した加工食品です。文献に初めて登場したのは平安時代の1115年、関白右大臣 藤原忠実の宴席の器の挿絵に描かれています。
当時は高級食材で庶民は口にすることはできませんでしたが、その後、製造技術の向上により明治から大正時代にかけて庶民にも手に届く商品となりました。
本記事では、「かまぼこの名前の由来」や「文献に登場した起源」、そして時代ごとの変遷をわかりやすく解説します。

かまぼこの名前の由来
かまぼこの名称については諸説ありますが、当初はすり身を竹に巻いて串焼きにした料理が植物の「蒲(がま)の鉾(ほこ)」に似ていたことから「がまのほこ」が転じて「かまぼこ」になったとされています。

ガマの鉾
かまぼこの起源
かまぼこが初めて文献に登場したのは平安時代の1115年。現存する古文書「類聚雑要抄(るいじゅうぞうようしょう)」に、関白右大臣 藤原忠実が三条に移転した際の祝賀料理の挿絵に漢字で「蒲鉾」と記されています。挿絵からも「蒲の鉾」を模したちくわ型だったことが見て取れます。
器には蒲鉾以外にも鯛や鱸、鯉などの料理も並び、蒲鉾は高級食材の一つだったことが伺えます。
かまぼこの変遷
室町~江戸時代
江戸時代に出された「摂戦実録大全(せっせんじつろくたいぜん)1752年刊行」では、豊臣秀頼が大阪城に戻る途中、料理人がかまぼこを作って振るまったという話が載っていて「板につけてあぶる」という文があることから、板付きかまぼこが室町時代にはあったものと考えられます。
そして、江戸時代には現在の「蒸しかまぼこ」の原型となる「板かまぼこ」が登場します。当時の百科事典にあたる「守貞謾稿(もりさだまんこう)1837年刊行」には「江戸にては焼て売ることなく、皆蒸したるのみを売る」と蒸しかまぼこのことが記されています。

板かまぼこイメージ
当時の料理本にあたる「黒白精味集(こくびゃくせいみしゅう)1733年刊行」には、鯛を使った蒲鉾やすり身の作り方が多く紹介されています。調理技術の進歩もあり、色を付けたり、すり身にほかの材料を混ぜたりと、味も見た目も進化。庶民の間にも普及していきます。
江戸(東京)をはじめ、小田原、京都、関西や北陸など地域色のあるかまぼこが発展していきます。
明治時代
明治維新以降、洋食文化の流入と共に水産加工業が近代化します。すり身を作る機械や蒸し器などが徐々に導入され、かまぼこの大量生産が可能になり、かまぼこは保存食や栄養食として注目されます。都市部では需要が急増。流通の発展により、地方の特産かまぼこが東京や大阪に送られました。
富山や金沢、小田原、宇和島など、地域ブランドのかまぼこが誕生します。
大正時代
大正時代には都市部の中産階級の増加により、かまぼこは贈答品・祝いの品として地位を確立します。富山や金沢では、婚礼や出産、進学などの「ハレの日」にかまぼこを贈る文化が広がります。
天然のいけすとも呼ばれる富山湾を持つ富山をはじめ、鮮度の高い魚を扱える沿岸部の都市がかまぼこ製造の中心となりました。

昭和から現代
戦後は深刻な食糧不足と物資不足に直面し、かまぼこの生産は一時的に激減し、白身魚の確保が難しいことから、イワシやサバなどの雑魚で代用されることもありました。
その一方で保存性が高く、たんぱく源にもなるため、ちくわとして学校給食など集団の食事に重宝されました。
その後、1950年代中頃からの高度経済成長期には、食品加工業が飛躍的に発展。ミキサーや成型機、蒸し器などの製造ラインの自動化が進んだほか、大量生産・全国流通が可能になり、かまぼこは手軽な日常食品となりました。
同じくして、富山をはじめとした手作りの高級な細工かまぼこが人気を集め、百貨店やカタログ通販など、贈答用のかまぼこの販売が拡大しました。

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河内屋は終戦間もない1947年の創業時、蒲鉾店としては後発ながらも、この頃から商品は手作りにこだわり魚の旨味が凝縮された、高級品やぜいたく品として地域の人たちに大変喜ばれ、今日に至っています。
かまぼこの新たな歴史を開いた「鮨蒲(すしかま)」、そして、子どもたちのおやつとしても人気となった「棒S(ボウズ)」と、河内屋はこれからもかまぼこの未来を作っていきます。
かまぼこは長く愛された健康食品
長く深い歴史をもつかまぼこ。近年では低脂肪・高たんぱくが注目され、アスリートの食事にも利用されるかまぼこは機能性の高い健康食品として再評価されています。
手頃な価格で様々な料理への使いやすさも魅力の一つです。長い歴史が育んだ伝統の味「かまぼこ」を楽しんでみてはいかがでしょうか。


