河内屋の歴史

昭和38年頃の魚津駅前(魚津市提供)

Chapter 1

魚津で創業

河内屋は終戦間もない昭和22年(1947年)に富山県魚津の地で、創業者 河内行雄により河内屋蒲鉾製造所という名前で蒲鉾屋としての第一歩を踏み出しました。当時の富山県内には、富山湾で豊富に新鮮な魚が獲れるという恵まれた環境の中で数多くの蒲鉾屋があり、そのほとんどが家内工業的な個人商店として地域に根ざした商売を営んでいました。河内屋はこのような環境の中で、富山県内の蒲鉾屋としては比較的後発のメーカーとしてスタートしました。

当時の蒲鉾屋は真夜中に仕事を始めて朝方から昼前には全ての製造は終了し、その日にできた蒲鉾を魚屋や魚市場に卸販売するという姿でした。作れば売れるモノの無い時代でもありましたし、また大量に作れる時代でもなかったので、入荷された魚を丁寧に処理して、その日に出来た蒲鉾を工場の片隅で地域の方々に買っていただくという毎日でした。全てが手造りだった為に、工場内には多くの職人が働き、活気ある毎日でもありました。

使用していた原材料は近海で獲れた魚がほとんどで、主にマダラ、スケソウダラ、カマス、ニギス、アジ、トビウオ、ヒラメなどです。また、富山県の特徴として色よりも魚本来の味を重視する嗜好が強く、水さらし工程が少なく、蒲鉾の色も少し黒ずんでいましたが、魚の旨味を活かした非常に味が良い蒲鉾で、当時としては高級品、贅沢品として大変喜ばれたものでした。

その後、鉄道をはじめとする交通網が全国に発達して行き、日本のほぼ中心に位置する富山県には、西は九州方面からグチやハモなど、そして東は北海道よりスケソウダラやホッケなどの新鮮な魚が氷詰めになって運ばれて来るようになりました。

魚津港にも近く、駅にも近い、大変便利な立地条件である国鉄魚津駅の駅前に蒲鉾屋を創業したという事は、美味しい蒲鉾造りには欠かせない新鮮な魚を求めた先代の知恵だったのだと思います。また、魚津は3,000m級の山々が続く立山連峰と、水深が最大で1,000mを超えると言われる富山湾の間に位置した平野部の少ない独特の地形で、立山の雪解け水が豊富に湧き出る恵まれた環境が、創業者の目には宝物に見えたのかもしれません。

河内屋は1956年(昭和31年)に魚津市内の1500戸以上も焼き尽くした大火災(魚津大火)の際、工場焼失を覚悟しましたが、火が迫る直前に奇跡的に風向きが変わり難を逃れました。当時、中学2年の長男一雄(2代目)は、工場の屋根から目にした真っ赤に迫って来る炎の恐怖を、今でも鮮明に記憶しています。

その後の魚津は、多くの人たちの努力により急速に復興を果たし、1958年(昭和33年)に富山県で開催された国体の際、河内屋のすぐ近くにある新しくなった村木小学校屋上から昭和天皇、皇后が復興する魚津市内の様子をご覧になられています。

魚津の大火という歴史に残る大惨事を奇跡的に逃れましたが、1960年(昭和35年)河内屋の隣家から発生した火災により、自宅兼工場の自宅部分を完全に焼失してしまい、創業からの貴重な資料や写真が残念ながら全く残っていません。しかし蒲鉾工場は、一部被害はあったものの、奇跡的に難を逃れ蒲鉾造りを止めることなく造り続けることができました。

現在、河内屋では時代とともに衛生面の向上や、効率を図りながらも手造りにこだわり、今でも創業の地で、創業の精神とともに蒲鉾造りに日々邁進しています。

Chapter 2

鮨蒲生まれる

1965年(昭和40年)頃、日本の水産業会では冷凍すり身という画期的な技術が確立されました。

当時は近海で獲れる魚が徐々に減少してきており、経済の発展とともに環境問題など新たな時代背景の中で、蒲鉾屋にとっては安定して品質の良い原材料を入荷する事が、困難になりつつありました。そのような環境の中で、北洋の良質で豊富なスケソウダラを有効利用するという新たな技術は、蒲鉾屋にとっての原材料不安を一気に解消し、富山県内はもちろんのこと全国の蒲鉾屋に急速に普及していきました。魚をすり身にする高度な技術は世界へと伝わり、今ではSURIMIという単語が世界中に通じるまでになっています。

一方、冷凍すり身の出現は、機械化による大量生産時代の幕開けと、地域で特徴のあった個性ある味が消えてしまうという弊害をもたらしました。

このような大きな環境変化の中で、富山県の蒲鉾は板が付いていない全国でも珍しい独自の蒲鉾文化を育み、特に古くから北前船により運ばれて来る北海道の良質な昆布を使った「昆布巻かまぼこ」や、彩りあざやかな鯛、鶴、亀などの「細工蒲鉾」は、富山県を代表する地場産品として全国的にその存在を知られるようになっていきました。

しかし大量生産、大量消費という大きな時代のうねりは、富山県内でも大きくなっていき、いつのまにか蒲鉾は、スーパーなどで安価に大量販売されるものになっていきました。

このような大量生産時代、富山の伝統的な蒲鉾も急速に大衆化していく時代の中で、2代目河内一雄は、富山伝統の蒲鉾の付加価値向上に目を向けると同時に、他の蒲鉾屋との差別化を図るために河内屋にしかない、河内屋ならではの商品開発に着手をしました。そして、家族との何気ない食事をきっかけに生まれたのが、鮨蒲(すしかま)の原形ともなる蒲鉾で、それは同時に河内屋の新しい歴史の始まりでもありました。 数え切れない試作の中で、現在の鮨蒲が確立されていきましたが、当時の富山県蒲鉾業界では評価も低く、取扱ってくれる販売店も皆無で、周囲からは後発メーカーによる奇をてらった商品に映ったのかもしれません。地元で思うように販路が進んでいかない中、「自分たちで作った蒲鉾は、自分たちの手で丁寧に売る」という方針を掲げ、1982年(昭和57年)7月に河内屋直営店の本拠地である魚津本店を開店し、同時に北陸の美味しいものを積極的に紹介する事で地元のお客様にはもちろんの事、県外のお客様にも満足して頂く店作りに力を入れていきました。

1979年(昭和54年)に生まれた鮨蒲が、1985年(昭和60年)2月、製法特許、実用新案、商標を取得することができました。 これをきっかけに、富山県外、特に全国有名百貨店からの引き合いや、 巻きかまぼこと鮨蒲人気が高い様々な有名雑誌などに取り上げられる機会が増えていき、鮨蒲に対する評価も一気に変わろうとしていました。
時は高速道路、モータリゼーションの時代に入り富山県の経済、観光も大きく変わろうとしていた時代です。「河内屋に鮨蒲あり!」という事が、徐々に富山県をはじめ北陸、そして全国に知名度が高まっていきました。

今では類似品も多く作られるようになり、蒲鉾の上に鮨ネタがのっている蒲鉾を総称して鮨蒲と呼ばれるにまで富山県では市民権を得る商品に育っています。現在、河内屋は鮨蒲本舗河内屋として直営店を中心に、積極的に新しい蒲鉾文化を発信し続けています。